booksの最近のブログ記事

artist's_way

最近は少し仕事も落ち着いたので、休日はファミレスで読書をして過ごしている。近くにあるCoco'sで。でも、もうひとつ雰囲気が好きになれないでいる。Salon des centのようなお店があればよいのだが・・・とTKB時代を思い返したとき、Denny'sを利用していたことを思い出した。学生時代の4畳半のアパートから"エミール・ユキ"というアパートに引っ越して住んでいた2年の間、すぐ近くのDenny'sで本や論文を読んだものだった。




kishima

こちらは、しらゆき姫が好きな作家のひとり、森博嗣さんの書いた小説。
著者はもともと工学部(たしか建築)の先生で、自宅の庭に完全自作の鉄道模型をつくってしまうような、個性的で多才な人物だ。

本作品は大学の理系の研究室を舞台にしたおはなし。作品のテーマについて言葉で抽出するのは難しいが、大学の研究室特有の「何か」を鮮やかに描き出している点で、とてもおもしろい。
理系大学院出身者であれば、思わずニヤリとするところ、身につまされるところがあるはずだ。

主人公の大学院生の性格は、どう言うべきか、冷徹。決して感情に乏しいわけではないのだが、それに対する距離の置き方ゆえ、つまり、感情は観察や分析の対象としてほぼ完結しているため、そのように映るのだと思う。

たぶん著者自身もそういう人で、その冷徹な観察眼があるからこそ、作品に見事な臨場感を与え、また思想を明晰に表現できるのだろう。しらゆき姫曰く「自分とは考え方や感じ方が違うから、とても刺激をうける」のだそう。

主人公は感情に距離を置いているが故に、それを起点とした行動についてはやや不器用だ。尊敬する喜嶋先生が、研究を形にするために情熱を傾けるのと同じように、好意を寄せる女性にアプローチする姿を見て、非常な感動を覚えるのだが、研究の方法として王道であっても、それが果たして恋愛に適用できるものなのか、BACにもよくわからない。
顛末は読んでのお楽しみということで。

ところで、著者は自己啓発本もいくつか書いていて、特に「自由」について独自の解釈と噛み砕いた表現を試みている(こちら)。
本作では、主人公が独り心情を吐露するシーンがあるのだが、恋人の「自由」についてもポロリとこぼしている。この小説の核心部だと思うし、しらゆき姫がBACに読んで欲しかったところでもあると感じている。



star

ごぶさたです。震災から復帰後、6月の売り上げを落とすまいと働いて3ヶ月、ようやく一息つけました。桜が散ってから時の流れが速かったです。震災が遥か昔に感じられます。


日常的仕事漬けというのはどうにもよくないです。望まぬ仕事をしているわけではないけれど、期限に追われる側面が強いので、主体性が損なわれていく気がしてなりません。
そんな気分なせいか、「個性化とはなんぞや・・・」とか思いながら、ユングの「自我と無意識」やヘッセの「デミアン」を読んでいました。が、それこそ末期的なので、今日は外出して海へ。


福島以北は津波注意報が出ていましたが、近くの阿字ケ浦ではおかまいなしで子供達が泳いでいました。

日の注ぐ 海を泳ぐも 好かれども
潮風薫る 橋をかけたし

寞庵



アルジャーノンに花束を

人と人が一緒にいられる条件というのは、ものすごく限られているのかもしれない、ということを想う一冊。
条件というのは、物理的条件というのももちろんあるけれど、ここでは精神的な面で均衡がとれていなければならないという意味です。
(広い意味では精神活動も人の生理的・物理的現象だけれど、それはさておき)

小説の内容に即していうなら、ここに息の合った恋人同士がいたとする。そして、もしどちらか一方が急に10歳、年齢を重ねてしまったとしたらどうなるのだろうか。
お互いに好きという気持ちが変わらなかったとしても、それぞれの想うところが変わってしまい、もはや一緒にいる必然性が失われてしまうのだろうか?

たぶんそうなのだろうと思う。

人においては、ものごとの認識のずれ(だけではないと思うけれど)が、いわゆる心の壁になっているのだろうから。
だからこそ、思うところはきちんと説明したいと思うし、逆に、あまり要らぬことで頭をいっぱいにしたくないとも思う。

それにしても、信じる(believe)ということになるとさらにやっかいだ。
「信じる」とは明確な根拠がないにもかかわらず何かを認めるということで、すなわち、説明することが出来ないのだから。

実はこの本を読んで、1年前のことを痛烈に思い出しました。Yくんのことです。blogに書くべきことなのか迷いがあります。ただ、思い出すうちに、少なくとも個人的には整理しておくべきことだと思い至りました。というわけで、

(つづく・・・けどここには書かないかもしれない)


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art_of_loving

こちらは、いつものSalon des centの本棚にあった本。
原書のタイトルは"THE ART OF LOVING"。
直訳すれば「愛するための技術」。
こてこてなタイトルで、内容もそのまんまなんだけれど、おもしろくてお店でついつい全部読んでしまいました。それでは飽き足らず、ブログで紹介するために借りてきてしまいました。

あちこち線が引かれていて、マスターが書きこんだのだろうか?と思って聞いてみたら、お客さんが寄贈してくれたものだそうです。

内容はいろいろ書かれていますが、技術の習得のために必要なことのひとつとして挙げられていた、「集中力」についての記述を引用します。

現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。なにしろ現代社会では、誰もが集中力に逆らって生きているように思われる。集中力の習得においていちばん重要なステップは、本も読まず、ラジオも聞かず、タバコも吸わず、酒も飲まずに、一人でじっとしていられるようになることだ。実際、集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。


独特な書き方だけれど、「集中している=addictionがない」ということのようです。あるいは「敏感であり続けること」ということかもしれません。

少し話は飛びますが、ちょっと前にある人から、「BACのブログにはナルシシズムを感じる」と言われました。
ナルシシズム on wikipedia
言われてみれば、そうかな、とも思うところもあるし、指摘されるまでもなくあえて書いているところもあります。
自己愛についてはこの本でも言及されていたのですが、それについては「ふぅん」くらいの感想でした。たぶん、自己愛自体は必ずしも悪いものではないと思います。

ただ、自分自身に対してaddictionがあるとしたら、ちょっと問題アリかなと思いました。



博士号とる?とらない?

友人のモトさんが休職して博士号を取るとのことで、こんな記事を書いていました。それに応えて、BACの思うところを書いてみました。

まず、基本的に定員は教官が指導出来る人数にすればよいのではないかと思います。そして自分が知っている範囲の研究室では博士課程の学生が多すぎるという印象を受けたことがありません。
博士号を取得したら安泰ならみんな行くだろうけれど、そうではないことぐらい博士課程に進む人は承知の上でしょう。

それから、博士号保持者に民間の就職先がないわけではありません。
以前勤めていたベンチャー企業に今も残っている社員3人のうち2人は博士号保持者です。
現在籍を置いている派遣会社にも博士号保持者はいます。また、勤務先の製薬会社も博士号取得者を採用しています。BACが働いている研究室の規模は40人弱ですが、博士号保持者はたぶん半分くらいいると思います。一部の人は入社してから取得しています。

ところで、研究室のこの一年の異動を振り返ると、他の部署へ出て行った人6人、他の部署から入ってきた人1人、新卒採用2人(たぶん博士)、一時出向(海外)1人、入れ替わりの出戻り1人、産休取得2人、派遣採用2人です。
もう少し人材の流動性を高めてもよい気がしますが、それなりに合理的に現在の程度に落ち着いているようにも思われます。
というのも、ひとつには人手は不足しているけれど研究室ごとに自由な採用権限があるわけではなく、せいぜい年に1人か2人採れればよい方。それゆえ教育した人はなるべく囲っておきたいというのがありそうです。
会社を辞める人はほとんどいません。恵まれた待遇ですからね。
解雇すべきひどい人はほとんどいません。それなりの選抜を行っていますからね。
つまり、会社の枠を超えた人の移動はきわめて少ないです。
世代交代のための新卒採用も少ない中、中途で外部から入るためには経歴とテーマがジャストフィットするケースに限られるようです。それは、BACが他の製薬会社に応募したときにも同じことを言われました。モトさんも今から学位を取るのであれば、今後直接的に役立つテーマを選んだ方がよいと思います。

というわけで、博士号保持者を優遇する企業がないわけではありませんが、フレキシブルな雇用と解雇に消極的な日本の企業風土(あるいは法律?)にあって、民間の採用枠もかなり限られていそうです。博士号保持者の需要に対して供給が本当に多すぎるなら、削減した方がよいと思います。

ただ、中西先生が指摘するように、博士課程の学生は投稿論文を書かなければいけませんが、それは学問的な方法を身につけると同時に公の仕事をするという意味もあるでしょう。博士号を持っていない自分が言うのもなんですが、決してムダなことではないと思います。



冒頭に挙げた本は、BACの大学院での指導教官の奥さんの師匠が書いたものです。たしか、この問題についてとりあげていて、それなりにおもしろかった記憶があります。
よかったらどうぞ。




5年くらい前に読んだ本ですが。

この作品、表面的には人妻に寄せる思い詰めた心情を描いたもののようですが、その実「信仰を受けいれる」ということをテーマにしているのではないかとBACは思います。

クリスチャンが「イエス=キリストを受けいれますか?」と言うとき、BACが思うに次のような意味を含んでいると感じています。

  1. 聖書の物語を受けいれること
  2. 人格を受けいれること
1.については「物語を受けいれることは、信仰の要件ではない」ということでBACの中ではケリがついているのですが、2.については微妙な想いがあります。

ひとつには、他人にそのように問うことは、やり方によってはかなりえげつないのではないかということ。
受け手は場合によってはウェルテルのようにひどく苦しむかもしれません。それをわかっててやるとしたら、どうなの?ということです。
旧作のエヴァンゲリオンもそのあたりをがっつり描いていたんじゃないでしょうか?

もうひとつは、信仰のあり方に関する疑問。

文庫版ウェルテルの解説では、後年のゲーテの言葉が紹介されています。

「『ウェルテル』は、厭世という病的状態から生まれたものであり、あの時代の病的風潮であったセンティメンタリズムを文学的に記録した小説である」

確かに、人格を拒むのは、自ら物語を紡ぐことができていないことからくる、センティメンタリズムに過ぎないかも知れないと思います。
とはいえ、受けいれる、というのにも違和感を感じます。
BACが思うに、拒むでもなく、受け入れるでもなく、静かに向き合えばよいではないか。

自分の中のちっぽけな人格と向き合うことができれば、自ずとそのようになるのではないか?
あるいは、拒んでも、受け入れても、自らまともな物語を紡ぐことは出来ないのではないか?
そんな想いがあります。
それを問うのが、BACの現在における信仰。


蛇足ですが、先日、新作エヴァの第2話を観てきました。
登場人物達は旧作でくどくどと描かれたメンタリティーを軽くクリアしていて、物語は別の方向に進んでいるようです。
観客はオタクっぽい人は少なく、カップルが多かったです。旧作よりも健全な作品ということなのでしょうか?
が、カップルがそろいもそろってひとつの物語に浸っている様子も気持ち悪いですな。



book1

book2

2009年の今年は、TKB暦25年。歴史がはじまってから四半世紀が経ちました。
TSUKUBA EXPO '85が開催された御幸が丘は、現在のBACの職場です。

この数日、村上春樹さんの最新作、"1Q84"にはまっていました。
人は、物語に沿って物事を体験する性向があるといいます。
BACは必ずしもそのようなありかたをよしとはしませんが、自分にとって意味ありげなキーワードをついつい拾い上げて読んでしまいました。
この作品にはそんな魔力めいた力があると思います。

青豆

筑波大学第一学群自然学類

小松

小説家

さなぎ

十歳年上の人妻

絵里子

二四六号線

プチトマト



山羊



ハーブティー

農場

証人会

ブルゴーニュ

二十六歳のとき

コンジャクモノガタリ

広尾

「そこは君自身の家で、君は逃げ出した自分自身を待っているのかもしれない」

「私は過去だとか歴史だとか、そんなものを書き換えたいとはちっとも思わない。私が書き換えたいのはね、今ここにある現在よ」

天吾がやらなくてはならないのはおそらく、現在という十字路に立って、過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ。

高円寺

猫の町

テントウムシ

限定された条件のもとで

いろんな方法を試すのが好きだった

大丈夫、あなたには私がいる

しかしほどなくトオルは失われる


もちろん、現実のBACの世界とは微妙に(かなり)異なりますが。

「で、そういうことをしますと、そのあとの日常の風景が、なんていうか、いつもとはちっとばかし違って見えてくるかもしれない。私にもそういう経験はあります。でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」

BOOK2の最後、主人公の天吾は昏睡状態の父の耳元で、自身のことを語り続けます。
それが礼儀のように感じて。

BACが、親類が読んでいるのを承知の上であけすけなブログを書くのも、これまでさほど意識してきたわけではありませんが、ある意味同じようもの。
いわば、法人に課せられた会計報告。
必要のないことは書きませんが。


"僕は必ず君をみつける"


BOOK3が気になります。



今年のGWも例年同様、伯母の家に遊びにいってきました。
いつも海鮮と話のネタを用意して歓迎してくれます。
今回のごちそうは、鯛の昆布〆、鰹のたたき、ヤリイカの煮物、筍ご飯などでした。
とてもおいしくいただきました。ありがとうございます^^

それから、伯父が用意してくれた話のネタは「自己表現」についてでした。
国語科の教員だった伯父は定年退職してしばらく経ちますが、今は看護学校で文章表現法を教えているそうです。
教えるにあたって、今、特に意識しているのは、正解を答えようとするのではなく、いかに自分の言葉で表現するか、ということを学んで欲しいということだそうです。
そして、そう言う以上は、自分も表現しなければいけないと感じているそうです。そこで積極的に取り組んでいるのが短歌。伯父は元来短歌や俳句を作るのが趣味でしたが、短歌は俳句と異なり、自分の内面が表に出るから発表したくなかったそうです。
まあ、最後の言葉は照れ隠しで、本当は表現したいことが山ほどあるのでしょう。でなければ「国語科の教員をしてきたけれど、自分にとっては遊びのようなもの」などとは言えないでしょう。生徒と楽しく対話していれば自ずと自分が出るはずです。

BACは今、小林秀雄の「本居宣長」をゆっくり読み進めていますが、ここにもちょうどこんな言葉が出てきました。

「すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなわぬわざ也、歌をよまでは、古の世のくはしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」

「人は自ずと表現したくなるものではあるが、表現について学ぶためには自分で表現してみなければわからない」

と読み替えることができそうです。

それにしても、自分の言葉で表現するというのは難しいですよね。
表題の本は、BACが小学生のときに読書感想文の題材にした本です。当時、BACは作文がとても苦手でした(今もですが)。でも宿題は提出しなければいけませんからね。母に、書き方がわからない、と言って泣きつきました。
それに対して母は「こういう風に書いてみたら?」と逐一アドバイスをくれました。BACはそれに従って「サクタくん、こんにちは」と始まる感想文を書きました。
これが市の作文コンクールに入賞してしまったのですが、自分の言葉で書いたものではないことを自覚していましたから、とてもバツが悪かったものです。
トドメに、近所の同級生のお母さんからは「これ、本当に君が書いたの?」とツッコミを入れられました。

ノーコメントで通しましたけれどね。副賞の図書券は何に使ったか忘れました。



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