2011年3月アーカイブ

各地で放射能汚染が騒がれていますね。

文科省のデータを見ると、水戸では観測される放射線量推移のベースラインが平常値よりも高い状態のまま下がりません。
これはつまり、一定量の放射能が常に放出されそれが運ばれて来ているか、相当量の放射能がこの地に既に蓄積してそれが宙を舞っているかの、どちらかではないでしょうか。

ちなみにグラフではおよそ0.3μSv/hとなので、毎日8時間屋外で365日作業する人は0.9mSv/yearとなります。それほど多くはありません。しかしながら、均一に拡散しているわけではないにしても、原発からの距離が短くなるほどほぼ相乗的に高くなるとしたらどうか。
現在の住居は原発から120kmの距離にありますが、これより近くには居住したくないぎりぎりのところではないでしょうか。アメリカは80km以内の人に避難指示を出したようですが、妥当な気がします。逆に言えば、今の場所にいるならそれほど心配しなくてもよいのかも知れません。目下のところ、花粉のほうが直ちに健康被害があって困っています。



昨日、ひたちなか市のアパートに帰って来ました。
気になるのは原発です。ニュースを聞いていると、収束しつつあるように思われますが、まだ状況が悪化する可能性も十分あると思っています。

戻ってくるまえに、厚木市内でガソリンを探したのですが得られず、相模原まで足を伸ばしてようやく給油待ちの列を見つけたと思ったら、計画停電に巻き込まれ、3時間かけて20リットル給油することができました。こちらに戻ってくる途中にもう一度くらい給油できたらよかったのですが、並ぶ気力がなかったのでそのまま戻って来てしまいました。それにしても、長い道中、営業している前を通過したのは1回だけでした。
もう一度実家まで戻るのに必要な量はタンクに残っていそうなので、しばらくは車の使用を控えて、自転車で生活しようと思います。いくらか放射能が舞っていますが、自分の感覚では許容範囲かな、と。


さて、地震2日目に戻ります。
尻尾を巻いて、コータも置き去りにして逃げ出したBACですが、一緒にいた後輩が一緒っだったことも多分に影響していました。
彼は昨年の秋から同じ会社で働いていますが、電車で通勤していて、車も自転車も持っておらず、とてもこの地に止まる事ができる状況ではありませんでした。地震直後は秋田の実家まで歩いて帰るしかないと思いつめていたくらいです。
ちなみに、彼は大学時代は素粒子物理学をやっていて、放射線に関する知識はBACよりずっとありました。地震当初、近くの東海村にある発電所も非常停止して、冷却装置が働いていないことが報道されていました(後で調べて知ったのですが、非常用発電機がが3台起動して冷却中、1台はポンプが津波で故障して、なんとか2台で軟着陸させることに成功した模様)。そんな状況で最悪の事態を想定するなら当然のことでしょうけれど、当初から一刻も早く避難することを主張していました。

土浦まで車を走らせてみて、東京まで行くのは時間的に難しいと思われたので松戸くらいで泊まる場所を探そうと思っていたのですが、その辺りまで来ると道の渋滞がほとんどなくなっていました。23:30くらいだったと思います。
そんな折、それまで曖昧な表現で原子炉の様子を伝えていたNHKのニュースに「炉心溶融」という言葉が登場しました。後輩の感想は、「ようやく認めたか」でした。それだけではどの程度の放射能汚染が起こりうるのかわかりませんでしたが、BACも言葉の響きにギョッとしました。
判断に悩むまでもなく都内まで車を走らせ、東京駅で後輩を降ろしたのが1:30くらいだったでしょうか。そのまま走り続けて、3:30に厚木の実家にたどり着きました。

その後、ニュースで炉心溶融という言葉は聞きませんが、定義が複数あるからでしょうか。あるいは不安を煽るからかもしれませんね。
燃料棒の損傷や外界への露出、再臨界と水素爆発の可能性がある現状はそれを指しているのだと思います。正直なところあまり戻って来たくはなかったんですが。

つづく。



ここ数日、自宅でぐったりしていた、BACです。
そろそろ復職の準備をしないとと思い、ガソリンを求めて市内を探索したけれど、無駄足でした。午前中に並ばないと駄目なようです。

地震後、携帯のワンセグは使えたのですが、映像は必要な情報ではなかったし、電池も消費してしまうので使用していませんでした。実家のテレビで悲惨な様子をまざまざとみせつけられていますが、当事者ではない人にとってはショーでしかないですね。

早く物資が届けばよいなと思います。

原発事故も気がかりです。再臨界が起きているわけではなさそうなので、十分な装備があれば現場の被曝はそれほど深刻ではないのかもしれないけれど、放射能の飛散を最小限に抑えるべく奮闘している現場の方には頭が下がります。

被災地を隔てている自分としては、早いところ自分の持ち場に戻るのが良心的なのかなと思います。

さて、地震翌日に戻ります。
後輩と相談して、まずは水を手に入れようということになりました。
市内の有線放送から、中学校で水を配給すると伝えられていたので、持っていた5リットルのポリタンクを持って車で出掛けました。
停電のため、商品をPOS管理しているコンビニやスーパーは閉店だったのですが、昔ながらの八百屋さんが営業していました。
そこでトマト、伊予柑、200mLパックのドリンク数個を買いました。

中学校に着くと、配給は午後2時からとのこと。このとき10時くらいだったので、水戸まで足を伸ばしてみることにしました。

国道に出ると一部の信号機は動いているのに気づきました。携帯電話は前日よりも通信状態が悪かったのですが、ときどきまとまってメールが送られてくるので、電線が遮断しているのではなく、電力が不足しているものと推測しました。

国道は大渋滞で、水戸に着くころには夕方になりそうな気配だったため、諦めて引き返すことにしました。途中、営業中のガソリンスタンドがあって、10リットルの量り売りをしていました。
あまり考えずに並んでしまったのですが、価格が1600円のところ2人あわせて1400円しかありませんでした。差額は負けてもらい、有り金はたいて給油したのですが、店の人にも後輩に対しても気まずい思いをしました。
実際には後で部屋に戻ったときに非常用の現金が2万円あることを思い出したので、すっからかんになったわけではなかったのですが、停電の時は現金が貴重であることを実感しました。お店には後で差額とお礼をもって行こうと思います。

さて、その後の行動ですが、後輩が睡眠不足だったので自宅に送り、水はBACが受け取りに行くことにしました。

中学校に着いたのは3時過ぎ。配給はまだ始まっておらず、校庭は長蛇の列でした。それに対して2000リットルの給水車が1台。一人当たり2リットルとのことなので千人が得られる計算ですが、全く足りなさそうでした。それでも止むを得ず2時間ほど並び、すっかり身体が冷え切ってしまったところで諦めて、待ち合わせ時刻を過ぎていたので、車にもどりました。
ラジオでは原発で爆発があったとのニュースが流れていました。

アパートに戻ると、部屋の電話も完全に不通になっており、これ以上残っているのは危険と考え、すぐに東京方面に避難することにしました。幸い、昼間よりは交通量が少かったのですが、信号機の大部分は停止していたので、注意が必要でした。

ところで、BACは携帯電話でインターネットを使う習慣がないのでパケット定額契約もしていないのですが、後輩は車中でソケットを電源にずっと情報を検索していました。あまり信用できない2ちゃんねるも参照していてどうかなとは思いましたが、石岡まで行けば電気は来ているとのことでした。実際、街にはいるとコンビニが営業していました。
かなり品薄状態でしたが、飲み物と菓子を手に入れ、後輩もATMで現金を引き出すことができました。

また、しばらく南下して土浦くらいまで来ると携帯電話で通話も可能となり、だいぶ安心することができました。このとき22:30くらいだったでしょうか。

書き疲れたので、一時中断。

つづく。



BACです。
被災したので、避難して神奈川の実家に帰ってきています。

これまでの経緯を記しておこうかなと思います。

地震が起きた時、BACは会社の居室でPCに向かっていました。
はじめ小さめの横揺れが10秒くらい続いて何人かで、地震だね、といいながら悠長に構えていたら、突然大きな横揺れに変わって、まじめにこれはヤバイと思い、机の下にもぐりました。すぐに停電して、机や棚から書類などが散乱しているようでした。

経験した事のない揺れ方だったので、机の下でかなり動揺していました。
大きな揺れは20秒くらいだったでしょうか。
一時収まったところで、屋外の広い場所に退避しました。幸いな事に建物は概ね無事なようでした。実験棟からも人が退避してきて、点呼。怪我人もいないようでした。ただ、半ばパニックになって体が動かない人もいたようで、停電で暗闇の中を引っ張って避難したそうです。あるいは、どう行動すべきか判断を誤って、避難が済む前に点検のために建屋に戻った人もいたみたいです。

広場で様子を伺っている最中に震度5を超えると思われる余震が何度かあり、近所の住居から瓦が落下するのを目の当たりにしました。村内の放送では津波警報と震源についての情報が流れていました。電話は混線してつながらず、ラジオと携帯のワンセグでニュースを確認しました。携帯メールはたまに受信がありましたが、送信はほとんど不可でした。

余震がややひと段落したところで更衣室で私服に着替えて、解散が言い渡されました。その後の行動の具体的な指示はありませんでしたが、家族のある人は自宅へ、単身者は数人で連れ立って行動することにしたようです。特に電車通勤の人は移動手段を欠いていたので。BACは同じ派遣会社の後輩を乗せて、アパートまで送っていきました。道があちらこちらで寸断、陥没していて、水道管が破裂しているところもあり。信号機も全て停止。車は大渋滞。1時間以上徘徊して住居にたどり着きました。
途中、災害伝言板に無事を書き込みましたが、しばらくしてアクセス不能になりました。

家屋、家具の損害はさほどではありませんでした。重たい電子レンジが冷蔵庫の上から落下していましたが、明らかに壊れていたのは立て掛けのホールミラーと壁掛け時計くらい。揺れの方向的に運がよかったみたいです。
電気、ガス、水道はストップ。度々大きな余震はありましたが、仕事の疲れがたまっていたので布団にくるまってしばらく爆睡しました。

目が覚めたのは家の電話が鳴ったため。実家からでした。停電でも繋がるんですね、知りませんでした。状況を何件か伝えたのち、電話を貸すために再び後輩を訪ねました。
結局、彼の方は秋田の実家や仙台の弟と連絡がつかなかったのですが。
ロウソクを燈して、僅かな備蓄の食料とワインを消費しました。

地震当日はこうして終了。

つづく



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