about "BAC"

come with me !

RSS feed etc.

偶然を廃棄せよ!

log in

Creative Commons License

« No day but today | メイン | 慈しみ »

Geschichten vom lieben Gott

words

リルケ、大好きな詩人です。

作中、一人の詩人が、子供達に伝えたい神さまについての短いおはなしを13篇、身近な大人達に伝えていきます。
一つ一つは独立していて、どれもほのかな余韻を残すのですが、その個々の話をどういう状況とその流れで誰にどのように語ったか、そして、それが子供達にどのように伝わったか、というところで繋がっています。

昨年復刊したらしく、BACはちょっと前に購入したのですが、ゆっくりゆっくり読み進めていました。

"rent"を観てから数日後、手に取って開いた一篇は、偶然こんなお話でした。


語り部の詩人とその知人の慈善活動家が、森のほとりを通りかかった時、まだ幼い女の子が乞食に布施を差し出す場面に遭遇します。

少女の物腰は至極敬虔なものでしたが、かえって活動家は、そのような真心を受ける乞食に嫉妬を感じていました。その様子をつぶさに観た詩人は、今こそまさにあなたに伝えるべき昔の話がある、と切り出します。

 

われらを楽しませる青春の いかに美しくとも

たれがとどめえよう 青春は逃げ去り 悔いを残すのみ

されば 歓びは きょうに求めよ

定めない世の 明日知れぬゆえに

 

かつて、この詩を歌う人々は、ある性急さに襲われて、この今という一瞬になにかを築き上げるべく生きていました。
そんな人々のうちの一人の青年が、ある日、彼が恋心を抱く同胞の貴族で、少々気位の高い女性の鼻をあかしてやりたい気分にかられました。

その女性というは寺院の門前に並ぶ乞食達に、施しをすることを日課としていました。
そこで、その青年は、自分も乞食になりすまして施しを受け、その心根を見定めることを思いついたのです。

その日も、いつものように、女性は寺院の門までやってきました。

折しも、乞食たちの間で諍いがおころうとしていました。
というのも、乞食たちはその女性から受け取ることにある種の恍惚を感じているところがあって、新参者の闖入を疎ましく思っていたのです。

女性もまた、見知らぬ顔の存在に気づきました。
そしてひどく動揺しました。
これまで、顔見知りに施すことで安心を得ていた自分に気づき、また、この世に無数に存在するであろう乞食たちに想いを馳せてしまったからです。

女性は、つい青年の前は素通りして礼拝に臨みました。

動揺は礼拝の間も隠せませんでした。

止むにやまれず、女性は立ち上がりました。今しかないのだと。

再び門の前に戻り、乞食になりすました青年に、こう言葉をかけました。

「わたしはあなたのことを存じています。昔、わが家に飾りつけを施してくださった職人の息子さんですよね。お父様が忘れていったものがございます。」

それは口からでまかせでしたが、その言葉に素直にひきつれられ、ひざまずき、乞食の手に財布を握らせました。

しばらく女性はじっとしたまま、乞食が震えているのをひしひしと感じていましたが、やがて急いで寺院の中に逃げ帰りました。

その時束の間開けた扉から、賛美歌が流れてきました。

ボロを着た青年は、何を感じ思ったのでしょうか、そのまま地方に流れてゆき、貧しく暮らしたそうです。

 

 

"rent"の中でひときわ輝く人物。
路地裏で怪我をして倒れている見知らぬ人に声をかけて、こう名のります。

"I'm Angel"

与えるときも、与えるものがないときも、それに先立って、今という一瞬を愛として受け取っていればこそ。

乞食のなりをした青年の話は、こんなふうに続いたのかもしれませんね。

コメント (12)

K:

うーん,良く分からないです.
こういうものに対するレセプターが
欠落しているのかも?

BAC:

Kくん
うーん、受容体というか、シナプスみたいなもんですね、きっと。

K:

言い出しといてなんですが.
例え話って,分かる時は分かり易いけど,
知識が共有出来てないと全く伝わらないですね.

BAC:

Kくん
知識じゃなくて情だと思うよ。

読み書き計算と違って利用するものではないけれど、自分の中から引き出すことが可能ではないかな?

K:

話としては,宮沢静虎の
’すべての行動は自己満足で行うべき’
と同じ趣旨ですか?

言葉の定義の問題なのかもしれませんが.
情を人と直接共有することは不可能なので,
間接的な体験などの知識を通じてのみ分かり合えるわけですよね?そもそも,情を共有していれば言葉で伝える必要もないわけだし.

BAC:

Kくん
「すべての行動は人に強いるべきではない」とは、言えるけれど、すべての行動が必ずしも自己満足を目的としているとは言えないと思う。
自分と乞食は物理的には別人だけれど、認識としては同一ということだね。
何かを与えたからといって、施している訳ではないんだよ。
だから感謝は神に捧げるの。

共感は物理的に共有することを意味していないよ。
それに、共感に言葉は必須ではないよ。
音楽や絵画にも人は共感できるのだし、大人の言葉をはなせない子供や、聾の人ともコミュニケーションは可能だよ。
ただディテールにこだわるなら、言葉は非常に有効な手段かもしれないね。

BAC:

Kくん
追記。
Kくんは自己満足ということにこだわっているようだけれど、例えば「お誕生日おめでとう!」というとき、自己満足を目的としているわけではないよね。
その延長線上にあるとは考えられない?

K:

うーん,色々書いたんですが.

続きは"旧村さ来"でやりましょう.

BAC:

Kくん
いつでもTKBに遊びにきてくださいませ♪

K:

らじゃ!

しょう:

今を生きること。。。

私が関わっている方たちは、「いま」を自分たちで選ぶことができません

何かを乗り越えなければ・・・
欠けている何かを手に入れなければ・・・と
努力を強いられ、変わることを強いられ、
その先にしか人生はないかのように、いまある姿を否定される

人生は、いま、ここにあるのに

この仕事を志していたころ、そんな想いを抱いていたことを思い出しました
ありがとう^^

BAC:

しょうさん
いまを享受するために努力するのと、いまを享受しているから努力するのは違いますよね。

しょうさんのいう「いまを選ぶことができない人」というのは、「いまを享受する環境にない人」ということを言っているのかな?
人は身の丈に応じたいましか受け取ることができないけれど、身の丈すら許さない理不尽があるとすれば、なんとかしたいですね。

コメントを投稿