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メリークリスマス

ご無沙汰しております~。

もう年の瀬ですね。先々週末は脱穀、精米に追われてブログを書けませんでした。
しかもとんでもない不作・・・。
昔であれば年が越せずに飢え死にか凍死といったところでしょう(泣)
その様子は、また近いうちアップするつもりですのでもう少しお待ちくださいませ。

で、先週末は記事を書いていたのですが、途中で時間切れになってしまったので、それを書き足してアップします。

 

今日はクリスマスイブということで、それ関連で何か書こうと思って思い出したのが、宮台真司さんの少し前のこんな記事

  【菩薩が娼婦の姿をとる場合】
■十五年以上前になりますが、埼玉県蕨市のテレクラを利用する男たちの間に、蕨には菩薩がいるという噂が立ちました。売春をする子なのですが、妻よりも恋人よりも心を尽くして男を喜ばせてくれるというのです。私は早速その子に会い、話を聞くことができました。
■彼女は言いました。私には恋人はいません。見つからないのではありません。すべての男性が愛おしくてたまらないのです。お金も貰えるからサービスしているんじゃありません。お金を貰うのは単なる淫乱女だと思われたくないからです。愛おしいから慈しむのです──。
■彼女を相手にした男たちの話を聞くこともできました。男が高齢であれ、労務者風であれ、オタク風であれ、彼女は等しく慈しんでくれる。こんな女は二人といない。だから本当に菩薩なのだ。涙ぐみながらそう話してくれる男もいました。さて、彼女は反道徳的でしょうか。
■先ほどの記述を思い出しましょう。彼女の売春は、金銭的欲望(必要)を満たすためになされるのではなく、自分が感情的関心を持たない相手に肉体を使用させるわけでもない。金銭的必要がないのに、自分が遍く感情的関心を寄せる男たちに、均しく肉体を使用させます。
■福音書によれば、イエスは、家族や故郷を捨て、敵を愛することを、奨励しました。家族や友人を愛する自然感情をエゴイズムとして却け、無関係な者を愛するというありそうもない振舞いを奨励しました。パウロが隣人愛と呼んだものです。彼女の振舞いはそれに似ます。
■彼女の営みを労働一般になぞらえれば、宗教的動機づけに駆動されたボランティア・ワークに近いものになります。そうしたボランティア・ワークは世間的には道徳的な善だと考えられています。現に彼女が菩薩と呼ばれるのは、そうした善悪観が反映するからでしょう。

宮台さんの書くことには考えさせられるところはあるけれど、奇矯な印象を受けることも少なくない。

この段落での問いかけに対して私が受け答えするならば、
「この女性の行いは悪とはいえないけれど、それでも道徳的にはやっぱり否。と言うのは、そのような愛し方には万人に要求されてしかるべき普遍性がないから。なお付け加えて言うなら、『敵をも愛せ』という言葉には普遍性があるけれど、それとて、このような形で癒しを与えることを要求しているわけではない。他人に対する分け隔てのなさという点においてこの女性の心のあり方は価値のあることだけれど、また、心の奥底で拒絶しながら愛を語るのも空しいことだけれど、だからといって、この女性がもっと別の幸せを得ることはエゴイズムではない。自分の愛し方にはもっとしかるべき形がある。」
と言いたい。

そもそも『福音書によれば、イエスは、家族や故郷を捨て、敵を愛することを、奨励しました。家族や友人を愛する自然感情をエゴイズムとして却け、無関係な者を愛するというありそうもない振舞いを奨励しました。』」という理解に違和感を覚える。

たしかにこのような言葉はある。

マタイによる福音書10章34-39
地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふささしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

たしかに誤解を与えかねない、激しい言い方ではある。
でも、このようにも言っている。

マタイによる福音書15章21-28
さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのはよろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、子犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。


ところで、今年のクリスマスはコータと教会のクリスマス会に参加してきた。

  christmas

とても楽しかったのだけれど・・・
このクリスマス会には近くの寮で生活する中高生が招かれて催されているのだけれど、会の最中、ぶつぶつと口ごもりながら、部屋を出て行く男の子が2人いた。
何か声をかけたかったけれど、言葉にならなかった。

善悪を抜きにしても、どちらかを選ばざるを得ないことがあることをジーザスも認めている。でも、自分の場合はそれを言うような身の上でもあるまいに。自分は飢えているわけでもなく、飢えている子供があるわけでもないのに、その子たちを「子犬」と表現するのはおこがましい。たんに、真剣さが足りないだけ。

なにより、ジーザスはこう言っている。

マタイによる福音書22章36-40
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。


来年は・・・と考える、クリスマスの一日でした。

メリークリスマス。