about "BAC"

come with me !

RSS feed etc.

偶然を廃棄せよ!

log in

Creative Commons License

« HALLOWEEN | メイン | コータの指摘 »

愛のあるブログ

内在的批判について on「哲学するサラリーマン 」

「内在的批判」とは、BAC的に表現すると、
「これこれには、このような(心理的、社会的、論理的etc.)構造があると思うけれど、それってどうなのよ?」と問う批判形式のこと。
外に向ける行為のことは「指摘」とも表現できるし、内に向ける行為は「自省」とも表現できる。


BACにとってブログを書くと言う行為は、自らの問いと答えの表明のつもりだけれど、場合によってはただの自己演出に見えるかもしれない。

このブログでは何度かエゴについて思うところを書いてきたけれど、自己演出とは文字通りエゴを着飾るオシャレ。

ジーザスはなんと言っているか。

マタイによる福音書5章13-15節
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取り戻されようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。


ジーザスは「エゴをなくせ」とは必ずしも言っていない。そもそも、人が生きている限りエゴがなくなりはしないことも認めていたのではないか。それゆえ「オシャレおおいにけっこう」な立場なのだと思う。
ただし、オシャレの質については問題視している。
いわば、「オシャレに(神の)愛があるかどうか」という点において。

ジーザスはこう言う。

マタイによる福音書6章31-34節
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。



さて、世の中にあふれる批判に接して、その中に嘲笑などが感じられた時、

「それって、愛がないんじゃないの?」

とBACは指摘したくなる。

だからこそ自らを省みて、果たして自分のブログには愛があるだろうか、と問う。
また、その愛がエゴを隠すための恣意的なものではないか、と問う。
そして、それらの問いに対して得られた答えが神によるものであるかどうか、積極的に耳を傾けられるようでありたいからこそ、書いてみる。