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マロングラッセ

とある方が、このブログの筆者は読解力がトンデモなのではないかと憂いておられるようなので、指摘されているであろう部分について、宮台さんの論に即して、私の考えるところを説明する。

宮台さんの論の趣旨は、差異のある多様な人間を学校という閉鎖空間に閉じ込めて、共同身体性(私の言葉で言うなら、共感によるコミュニケーショ ンを万事うまくゆかせること)を強いながら、いじめを完全否定するのはナンセンスであるということだ。つまり、子供の尊厳を傷つける状況を強いてい ながら、尊厳を傷つけるな、ということ自体が無理な要求である、と。
100%共同身体性を実現することが不可能である以上、感情的にぶつかり合って、いじめに類するものが生じるのは仕方のないことで、だからこそ、いじめの撲滅を主張するのではなく、程度を問題にするべきである、と宮台さんは言う。
また、そのような状況下で子供のとっている行動を分析して、共同身体性が要求されない状況を作り出す(人格の核心には触れず、表面的につきあう事を暗黙の了解とする)ことによって、防衛手段としているという。

言うことはもっともだと思うし、確かに、そういう構図はあるとも思う。しかし、宮台さんは学校が共同身体性を強いているという前提で話をして、その構造を 問題視しているけれども、私が言いたいのは、学校は必ずしも絶対的に共同身体性を強いているわけではないし、それでもいじめは存在するということだ。以前の記事で 書いたけれど、「相手の上に立とうとする態度というのがいじめの心理」だと思っている。そして何故そのような態度をとってしまうかといえば、いろいろな要 因があるだろうけれど、ひとつには「自分」という存在の理解が不十分だから、というのが私の考えだ。人格の核心には触れず、表面的につきあうことしかでき ないのも、その一つの現れだと思う。

共同で何かをやらなければならない時、多かれ少なかれ共同身体性(のようなもの)は必要とされるものだ。そのとき互いに尊厳を損なわないようにできるのが大人というもので、それこそ、経験値が必要ではないか。