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殺人が駄目な理由

何故人を殺してはいけないか。

「理不尽に自分が殺されたくないなら、同様に他人も殺してはいけない」

道徳におけるこういう理屈を、カントは「仮言命法」と呼んだ。
一般化すると、「もし~ならば、・・・すべし」という命法のことである。

あるいは、give and takeの命法と言ってもいいかもしれない。暗に見返りを
求める道徳律である。
実はこの論理には逃げ道が多い。

「自分がそうされたくないのであれば、いじめを見て見ぬふりをするな」

この場合、自分がいじめられるのがもっと嫌ならば、従わなくてもよいことに
なる。

あるいは、「殺されてもいいから、殺す」とキレることも許容していると言える。
(まあ、時としてそれはありな気がするけれど)


それに対して、「定言命法」というものをカントは提示している。

「理由はなんであれ、人を殺してはいけない」

こちらは条件の無い命法である。したがって、逃げ道の無い厳格な命法である。

じっくり考えれば、定言命法は信仰とセットになっていることがわかる。
「理由は何であれ」の理由を強いていうなれば、「神様はすべての人を愛している
から」となるからである。
いじめを目の当たりにした場合も、見過ごしてよい理由はみあたらない。


要するに「罰を恐れるか、罪を恐れるか」という問題に帰結するのだ。


もし自分が「なぜ人を殺してはいけないか」と問われたらどちらで答えるか。

できれば「理由はなんであれ、人を殺してはいけない」と即答したいところだけれど、
それにはもっと広範な覚悟を要するので、躊躇してしまう。

後者の立場に立つことをカントは「自由」であるとした。

「自らに由る(よる)」

それは決して生易しいものではない。