about "BAC"

come with me !

RSS feed etc.

偶然を廃棄せよ!

log in

Creative Commons License

« 米の国 | メイン | 唐突にcoba »

夢と願望

今の日本では、夢(Dream)が殊更もてはやされているように思う。
確かに、夢を持って生きるのは楽しいことだ。そして夢がかなう
喜びもまた、かけがえのないものだと思う。だから、夢をもつことを
否定する気はさらさらない。だけど、夢の持ち方については、ひとつ、
思うところがある。


どういうことか。


世の中には、夢と願望を混同している人がいる。

「自分は何をしたいのか」という問いを立てて、自分探しの焦燥に駆られる
人。これは願望の域を出ない。

理想に自分を同一化して、あるいは同一化しようとして自己を肥大化させる
人。これも願望の域を出ない。

愛の渇望。それはそれは切ない願望。

「自己実現」という、名前からして露骨な願望。

いずれも、挫折と表裏一体な、精神分裂のための危険な火種。


では、夢と願望では何が違うのか。

人はまず始めに理解するべき事柄がある。それは、

「人は何様でもない。それでもなお、愛する人がいて、愛される人が
いて、それゆえ愛するべく、愛されるべくの行いがあって、それによって、
初めて生きている。」

ということ。
そう理解したとき、必然的に、個人的な欲求としての願望は昇華される
ものだとおもう。その時生まれるのが夢。
だから、夢の本質は自分自身を離れたところに存在する。すなわち、
夢にとって大切なのは、手段でも、目的でも、過程でも、結果でもなく、
自らの力及ばぬ事柄に対して、「あれぞかし」と祈る心、言い換えれば「希望」。

違いますか?

コメント (2)

ねお:

夢の定義は恐らく、それにより自己実現の道具たらしめない純粋な動機に立つ人生における自己欺瞞なき行為だと思います。美しい橋を見て、このようなすばらしい橋を作ってみたい。これは夢であると思います。しかし、橋の知識的権威になり認められたいとか金銭的満足感を得たいなどの依存が始まるとき、もはや彼は橋を夢見て(愛して)はいないのだと思います。なので夢は願望などでは決してありえないが、希望でもないでしょう。希望は絶望の反対物であり、(賛成、反対等の)同次元における2つの異なる反応にすぎません。愛や夢にはこのような反対物はないと思うのです。もしあればそれは何かと比較可能となり、愛は比較からは生じないという大前提に矛盾するからです。

BAC:

ねおさん
コメントありがとうございます。
あはは、ネタばれですね。

願望が挫折する時、人は絶望するものだけれど、希望は絶望の反対物ではない。それゆえ、夢は絶望を招くことがない。そのように考えます。自己欺瞞のない行ないの中では、人はただ感動の中にあるのではないでしょうか。
ところで、言葉は表象であり、記号であり、既知のもの。議論するためには言葉の定義が必要ですが、通常、誰かの言葉の定義に捕われる必要はないのです。そして、なにより大事なのは、言葉でどう表現するかではなく、自分自身がどうあるかです。

一応それらしく答えてみました。
いかがでしょうか?

コメントを投稿